先日、友人の結婚式に参加した。
新婦はお父様を亡くされており、締めの挨拶を新郎が代わりに行った。
新郎が話したことは多くはない。
しかも、言葉自体はありふれたものだった。
「人が本当に死ぬのは、みんなの記憶から完全に消えた時です。」
うん、本で読んだことある読んだことある。
うんうん、テレビでも見たことあるな。
そんなことを思いながら、
僕は涙を止めることができなかった。
あいつが、
いま新郎としてみんなの前で喋っているあいつが、
どんな気持ちでこの日を迎え、
どんな覚悟を持ってその言葉を発しているのか。
自分の最愛の人の記憶まで一緒に引き継ぐと決心して上記を発しているあいつの気持ちを考えるともうだめだった。
また話変わって、僕には弟がいる。
弟は、昔対人関係で辛いことがあったからか、または僕という兄を持っているからこそか、自分自身高潔であろうとする性質があった。
そして、簡単にへこんでしまう自分や、浮ついてしまう自分をいつも責めていた。
こんな自分は高潔ではない、と。
見ているこっちが苦しくなるくらい、責めていた。
そんな弟に僕の友人は
「もっと俗っぽくてええよ?」
と言った。
それこそこのセリフは、僕が色んな表現を使って弟に伝えていたことそのものだ。
だけど、弟はこの友人のセリフから少しずつ変わり始めた。
いや、元の天真爛漫な三男坊に戻り始めたと言っても良い。
振り返ると前から弟と僕の友人との関係は不思議だった。
弟は僕の友人をかなり慕っており、二人で徹夜で街を探索したり、星を見ながら将来一緒に何が出来るかを語ったりしていた。
弟の心の中の動きは正確にはわからないけど、僕ではなく、僕の友人の言葉だからこそ響いた何かがあったんだと思う。
そんな2つの出来事から僕は、
何を言うかではなく、
誰が言うかだなー
と思うようになってきた。
巷には
「誰が言うか」vs.「何を言うか」
論争もあるそうだが、大切なのはそこではない。
自分がその「誰か」にはどうやったらなれるのか、である。
そして結局それは、「何をいうか」にこだわることじゃないだろうかと思っている。
肩書きやステータスに頼り、自分の頭で考えることなく発言を繰り返し、押し通して来た人。
これから伝える相手のことを真剣に考えて向き合い、伝える内容にもこだわって来た人。
僕は、後者の人の言うことに共感を示すようになるし、心震わされることも増えていく。
その人が言うことが正しいかどうかなんてどうでもよくて、その人が言ってるという事自体が価値へと変わっていく。
これがまさに、誰が言うか、だ。
「何を」言うかにこだわって、
「誰か」を勝ち取る。
これこそが、「誰か」になるためのたった1つの方法なのかもしれない。
そんな事を考えながら電車に揺られております。
(ねむねむ…)
おあとがよろしいようで。