誰かに何かを伝えるというのはどういうことなのだろう。
誰かに何かを伝える「手段」には色んなモノがある。
それは、文章だったり写真だったり音楽だったり、ほんとに様々。
ただ、それは「本当に伝えたいこと」があって、その手段が様々なだけ
と、僕は今までそう思っていた。
仮にここから、この「本当に伝えたいこと」というのを、「メタ・メッセージ」と呼ぶことにしよう。
たとえばだが、Facebookの友だちと遊んでいる写真アップのメタ・メッセージは何になるだろうか?
「友だちと遊んで楽しいという気持ち」
だろうか。
たしかにそういう人もいるかもしれない。
だけど、大多数の人にとって
「イケてる俺を見て!」
が本当のメタ・メッセージだ。
他にも「分析的なブログ」で伝えたいのはその情報そのものではなく、
「分析できる俺かっけーだろ?」
がメタ・メッセージだったりする。
これは、別に悪くなくて、その結果誰かに得るものがあれば、みんなハッピーでよい。
俺もよく「おれすげーだろ?」という承認欲求バリバリのメタ・メッセージを含んだ投稿したりする。意識的か無意識的かを置いといてね。
そんなメタ・メッセージに関してすごい発見をしたので、是非聞いてほしい。
ただ、混乱必須の話になる。理解できる人だけでも理解してほしい。
(おそらく僕がこの文章見ても理解できないw
◇戦争で脚をなくした男の子の写真
を例に取りたい。
この写真を見てをみて、
「かわいそう!」
「人道的にどうなの!」
みたいな批判を受けるとする。
するとカメラマンは
「いやいや、そんなことをは俺もわかってやってるんだよ。それでも伝わるもんあるだろ?それが、俺がほんとに伝えたいこと。メタ・メッセージ。な?わかるだろ?言葉にさせんなよだせーな。」
という気分になる。
(俺はそういう写真を撮ったことはないが)
上記をカメラマンがあえて避けてたダサい言語化をすると、メタ・メッセージは「日常の素晴らしさ」だったりするかもしれないけど、これって
「日常の素晴らしさ」
って言葉で言われても全く響かないし、ニコニコ笑っている写真をただ見せられただけでも伝わるものでもない。
だからこそ、このカメラマンは「戦争で脚をなくした男の子」というきりくちを利用して、そのメタ・メッセージを伝えようとしている。
で、こっから本題。
この「日常の素晴らしさ」というのは、カメラマン自体最初から伝えたいと思って戦場に行ったのだろうか?
どうしても「日常の素晴らしさ」というメタ・メッセージを伝えたくて、その表現として「戦争で脚をなくした男の子」を撮ったのだろうか?
それはありえないと思う。(そういう人もいるかもしれないけど)
このカメラマンの中で、「戦争で脚をなくした男の子」の写真を撮った(=表現した)瞬間に、「日常の素晴らしさ」というメタ・メッセージが生まれた。
ということは、「伝えたいこと」(=メタ・メッセージ)と「表現」は、必ずしも
「伝えたいこと」→「表現」
の順番にならないということだ。
「表現」→「伝えたいこと」
があり得る。
これ、驚きじゃない?
俺はこの考えに思い至って、まじで感動している。
もしかしたら、芸術家が、
「この石の本当の姿を掘り出すのだ」
とか言って、ありえない美しい石像を創ったりしているのは、これのことなんじゃないだろうか。
また、
「神が降りてきた」
と言って、作曲された曲もこれなんじゃないか。
俺は今まで、意識的か無意識的かを置いておいて、「伝えたいこと」(=メタ・メッセージ)があってはじめて、なんらかの表現がなされていると思っていた。
いや、だって自分の中にあるもの以外、外に出せないでしょ、と。
だけど、この考えからすると、先に表現があって、そのあと「伝えたいこと」が生まれてくることもある。
おそらく、「伝えたいこと」と「表現」とは一方に流れる上流下流関係ではなく、相互作用しながら明確化・顕在化されてくるものなんじゃないだろうか。
つまり
「伝えたいこと」←→「表現」
なんじゃないか。
今まで「稚拙な表現になんの価値があるんだろうか」と何度も自問自答したし、人が表現を辞めない理由について考えてきたんだけど、
伝えたいことを見つけるために表現をする
もしかしたらこれが一つの答えなのかもしれない。
そんな風に感動しているところで、今回は筆を置きたいと思う。
ちなみに、この記事のメタ・メッセージは、
「みんな聞いて聞いて!僕、凄いことに気付いちゃったかも!」
という、子どもがお母さんに一日の出来事を話すような気持ちだったりするかもしんない。
てことで、おあとがよろしいようで。
<目次>
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