不思議な友人がいる。
新しい物事を始めるのに積極的だし、人の話を深く聞くための質問も多く自己成長に貪欲。
自分の考え方や生き方について問われることは僕も楽しく、彼と積極的に話すのだが、いまいちピンとこない。
彼からは、「これ他の人と話すとめっちゃおもろいのに」というテーマがバンバンでてくるのに、彼と話す時だけは「うーん、なんかおもんない」となる。
話せば話すだけ、彼の表層をうわ滑っていく徒労感を味わう。
言葉を尽くし、エネルギーを懸けても、自分の言葉で彼の中の何かが変化したのを感じることが全くできない。
これはなんなんだろうか?
また、大学生から相談を受ける際に
「ぼくめっちゃ成長したいんです!!」
という子が結構いる。
「うんうん」と孫をみるような目で見ながら、話を聞いたり受け答えをするんだけど、なんか刺さっていない。
暖簾に腕押し感がひどい。。
これもなんなんだろうか?
そう考えてるとき、ふと気付いたのは、
あ、彼らは自分が欲しい回答以外、自分の中に取り入れる気がないんだ
ということだった。
これだと当たり前だけど、自己の変化も成長もしない。
変化とか成長というのは唯一絶対の価値ではないから、別にそれを望まないのであればそれはそれで全然いい。ただ、変化や成長を望んでいるにこの姿勢はめっちゃ損していると思う。
これを変える唯一の方法は、
ただ、目の前のことを受け入れる
である。
自分の目の前にあるヒト、コトから得られる情報、熱量、視座等々を一旦フラットに受け入れる。
評価をしない。色を付けない。
ただただそのまま体の中に入れる。
その人がそのことを言ったということだけを、ただ吸収する。
別にこれは全肯定しろとかそういう話ではない。
表面で「自分には関係ない」とか、「自分とは違う」と言って弾くな、そう言っている。
一旦体の中に入れてからは、いろんなものが生じる。
それはたとえば、誰かの意見について肯定する自分の意見が芽生えるかもしれないし、反対に嫌悪感を持って反対する考えが生じるかもしれない。
それはそれでいい。
そんなの最初っから弾くのと何が違うの?
うん。一見一緒のように見えるかもしれない。
ただ、表面で弾くと自分の中に何も残らないよ?
それは、無変化ということだ。
成長したいと言って、ヒトに会ったり、コトにあたっても、それだけでは自らを変化させることにはならない。
今自分が好んで取り入れていることと、同じことのみ吸収して、
「自分は成長している」
と思うのは、まあはっきり言って勘違いだと思う。
主観的な成長と客観的な成長がずれてるなーって思う人は、
ただ、受け入れる
是非やってみてください。
と、書いた上であれなんですが、これはそもそもそういうのわかっている人は「ただ受け入れる」ができてたりするんですよね。
この文章が全く自分とは関係ないなーって人こそ、取り入れてみてもらいたかったりするんですが、このあたりがブログの限界かな、と悲しくなったりしつつ筆を置きます。
ということで全然良くないけど、
おあとがよろしいようで。