人には優しくするべきだ
本は読むべきだ
遅刻はすべきでない
仕事は元気にやるべきだ
旦那は稼ぐべきだ
こんな言葉をよく使ってないだろうか?
一見して良い言葉のように見えなくもないけど、こういう言葉を使う人は他人に厳しいし、自分にはもっと厳しい。
「べき論」を自分に対しても多く使う人は、自分の中の理想の姿に縛られまくってて、本来の自分を上手く出すことが出来ていない。息苦しい状態になっちゃってる。
じゃあどうすればいいのか?
・・・そう、甘えればいいのである
自分に対して厳しい人は、頑なに甘えちゃいけないと思っている。
それこそ、「大人たるもの甘えるべきではないのである」とか意識的か無意識的かわからないけど考えてる。
たしかに、「甘える」という言葉にはどことなくネガティブな響きが含まれる。
それをちょっと分析してみたい。
Contents
1 フリーライド感
自分に厳しい人は「甘える」ことを誰かにタダ乗り(フリーライド)することだと考えている。
けどこれは違う。明確に違う。
一番違うのは、「甘える」は相手に対して敬意を持っている。
それも自分より相当凄い人という前提での敬意がある。
一方でフリーライドの人の人にとっての相手は、道具である。
そこには敬意も何もなく、ただただ自分が得するように相手を動かそうとする。
これら2つは、正直相手方としてはわかる。
うん、割とはっきりと分かる。
「ういやつめ///」
となるか
「はあ、まじであいつタダ乗りうぜー」
となるかなんて、敬意の有無でわかるから、ちゃんと敬意持って甘えられれば嫌われるどころかむしろ好かれるよ。
2 一人でやらなきゃ感
自分に厳しい人は、一人でやらなきゃ感が強い。
「自分でやらなきゃ」「自分でやらなきゃ」と、誰かに聞いたり手伝ってもらったら5分で終わることを数時間やってたりする。
いやいや、そこはえんで?甘えても。
甘えられることで新たに気付くこともあるし、甘えることで後輩を甘えさせてあげられるようになる。そんなもんですよ。
というのを考えると、大体こんな感じに場合分け出来るんかな?
「甘え下手」でもなく、「Free Rider」でもなく、「甘え上手」になれば、より多くの価値を出すこと出来る。
これは考えてみれば当たり前で、
「甘え下手」は、一人でやってるに過ぎずチームによる仕事ができないし、
「Free Rider」は、チームで仕事しつつも他者の力を数分の一しか利用できないことに加え、自分の力がチームに乗っかってないからMAXでも「総人数−1」の成果しか出せない。
とか考えてみると、「甘え上手」になるってのすごく大切な気がしてこないですか?
甘えられるようになると、人の甘えにも自分の甘えにも寛容になって、ちょっと柔らかく、そして生きやすくなるよ?
そういうのもありじゃないですか?
てな感じで、おあとがよろしいようで。
<目次>
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